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「ばら色の人生」エディット・ピアフ La Vie En Rose

エディット・ピアフ(Édith Piaf, 1915年12月19日 -
1963年10月11日)は、多くの人に影響を与えたフランスを
代表するシャンソン歌手です。


数々の伝記からうかがえるエディット・ピアフの生涯はまさに
波乱万丈と言えるでしょう。


彼女はエディット・ジョヴァンナ・ガション(Édith Giovanna
Gassion)としてパリの貧しい地区ベルヴィル(Belleville)に
生まれました。

母親はイタリア系で当時20歳のカフェの歌い手、父親は34歳
ノルマンディ地方出身のアクロバットの大道芸人でした。

幼いエディットはまもなく母方の祖母の元に短期間預けられ
ますが、4歳で角膜炎のため視力を失い、6歳のとき奇跡の地
「ルルド」で聖母テレーズに祈ったところ、10日後に奇跡的に
視力を回復します。

10歳のころには、父とともに、サーカスの一座と街から
街への旅をつづけながら路上で歌を歌う生活をします。

15歳で父に反発し、義妹と共同生活を始め、
17歳で御用聞きの少年、ルイ・デュポンと駆け落ちし、
女中や木靴工場で働きながら、街頭で歌って稼いでいました。

18歳の頃には娘をかかえて街頭で歌っていましたが、
同時に3人の恋人を持つような生活でした。

「私の場合には、愛されたいという願望が病的と思えるほど
激しいのです。
 自分のことを美人でもなく、誰からも相手にされず、しかも
 ひとに好かれる魅力のない女だときめこんでいただけに、
 その思いがひとしおだったのかもしれません。」


20歳のとき、エディットはナイトクラブ「ジャニーズ」の
オーナー、ルイ・ルプレー(Louis Leplée) によって見出され、
彼の店で歌を歌うようになります。

エディットの身長は142cmにすぎず、その小柄な体からルイは
彼女に、後の芸名となる「小さなスズメ」(La Môme Piaf)の
愛称を与えます。

そのナイトクラブは上流、下流両階層の客達が出入りしていて、
俳優モーリス・シュバリエやジャン・コクトーと知り合う
ことになります。


彼女の最初のレコードはこの年(1935年)に録音され、映画
「ラ・ギャルソンヌ」に出演しました。

1936年にレコードが発売されると、泥沼の生活から立ち直り、
「街角の歌手」から「本格的な歌手」へ変身します。
彼女は自らの歌の多くの歌詞を書き、作曲家達と協力しました。



1945年の彼女の代表曲「ばら色の人生」(この曲は1998年の
グラミー賞名誉賞を受賞しています)は、第二次世界大戦の
ドイツ占領下に書かれました。
この時期彼女は大変な成功を収め、大きな人気を得ます。

今日、ピアフのレジスタンスへの貢献はよく知られており、
多くの人々が彼女によって救われた逸話も残っています。。

戦後、彼女は世界的な人気を得、ヨーロッパとアメリカ合衆国、
南アメリカで公演旅行を行ないました。


彼女はシャルル・アズナヴールのデビューを手助けし、
自らのフランス、アメリカでの公演旅行に同伴させました。
アズナブールの他にも、イブ・モンタン、ジルベール・ベコー、
フランシス・レイ、ジョルジュ・ムスタキなど
ピアフに才能を見出された歌手、作曲家はたくさんいます。


ピアフの生涯の大恋愛はボクサーのマルセル・セルダンとの
ものですが、彼が1949年に飛行機事故死したときに
作詞して歌われたのが「愛の賛歌」です。


多くの恋愛遍歴をもつピアフは2度結婚しており、最初の夫は
歌手のジャック・パル(Jacques Pills)で、
2人目の夫はヘアドレッサーから歌手、俳優へ転身した
テオファニス・ランボウカス(Theophanis Lamboukas,
「テオ・サラポ」の名で知られる)でした。

サラポはピアフよりも20歳も若かったのですが、ピアフの
大ファンで交際するようになり、マレーネ・ディートリッヒの
介添えのもと1962年に結婚しました。
サラポはピアフの死後、彼女の残した多額の借金を独力で
すべて返済するほど尽くしました。


1951年に彼女は自動車事故(シャルル・アズナブールも同乗)
に遭い、その後痛み止めのため深刻なモルヒネ中毒に苦しむ
ことになります。

1963年、3月18日リール市のオペラ座で生涯最後の舞台に立ち、
4月にピアフは最後の曲「ベルリンの男 L'homme de Berlin」を
レコーディングしています。

47歳になってまもなくの1963年10月10日、ピアフは南フランスの
プラスカシェで心臓マヒで死去しました。


葬儀には無数の死を悼む人々が路上に現れ葬列を見送り、
パリ中の商店が弔意を表して休業し喪に服しました。
墓地での葬儀は40,000人以上のファンで混雑しました。

シャルル・アズナブールは「第二次世界大戦後、パリの交通が
完全にストップしたのはピアフの葬儀の時だけだった」と
述懐しています。



フランスで最も愛されている歌手の一人であり、国民的象徴
であった彼女の音楽はその劇的な生涯を反映しています。


有名な曲としては「ばら色の人生 La vie en rose」(1946年)、
「愛の賛歌 Hymne à l'amour」 (1949年)、「ミロール Milord」
(1959年)があげられますが、それでも彼女の人生はばら色に
輝いていたということで、この曲を。



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