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「ラ・ボエーム」シャルル・アズナブール La Boheme

シャルル・アズナヴールは1924年5月22日パリ生まれの歌手・
俳優です。
本名Chahnour Varinag Aznavourian

父はグルジア生まれのオペラ歌手、母はトルコ系アルメニア人の
女優でしたが、非トルコ系民族への迫害をのがれようと
アメリカ行きのビザを申請するためパリに滞在している時
(1922年)に結婚し、シャルルの出産のためにフランスに
居をかまえたのでした。


シャルルは9歳で芸能活動を開始し、アズナブールの芸名を
名乗るようになります。

父親が開いたレストランが倒産し、シャルル少年は姉と
ミュージックホール系の劇団にはいり、以来家計を支えなければ
なりませんでした。


アズナブールは俳優としてキャリアをスタートし、40年代は
作曲家のピエール・ロッシュとコンビを組んで、デュオ歌手
として活躍しました。
 
一人で歌うことを勧めたのは、あの天才歌手、エディット・
ピアフでした。
彼女のフランスおよびアメリカのツアーに同行するように
なります。

50年代初頭、アズナブールはピアフに「若者がいた」を作詞し、
ジルベール・ベコーに「メケメケ」(美輪明宏さんが歌って
ます)、ジュリエット・グレコに「日曜日は嫌い」などを書き、
作詞家としてまず認められるようになります。

60年代からはレイ・チャールズに「ラ・マンマ」を書き、
ビング・クロスビーには「帰りこぬ青春」と、その活動を
世界へと広げていきます。

1964年には彼が作詞・作曲した「アイドルを探せ」がシルヴィ・
バルタンの歌で大ヒットしました。

このようにシンガーとしてだけでなく、作詞・作曲家としての
活動、また映画俳優としての活動が、アズナブールの活動を
支えてきました。
これまで作詞・作曲した曲は100曲以上、出演した映画は60本
以上もあります。


両親がアルメニアからの移民だったので、彼は言います。
「私は外国にでるときはフランス人としてふるまうが、
フランスではアルメニア人の代表として行動する。」

88年にアルメニア地震が起き5万人の死者がでたときには、
先頭に立って救済に当たっています。
そのとき発表された「アルメニア、汝のために」は100万枚を
超えるヒットとなり、ユネスコから「アルメニア終身大使」に
任命されました。

近頃出演した映画「アラトの聖母」(02年)は、トルコによる
アルメニア人虐殺の歴史を描いたもので、トルコのEU加盟の
障害になっている事件です。

このように、かれにとって祖国への愛は、歴史を真っ正面から
見つめつづける行為としても表現されてきました。



「ラ・ボエーム」はシャトレ座で上演されたオペレット
「ムッシュ・カルナバル」の主題歌でヒットしました。 
 詞はジャック・ブラント、曲はアズナブール。

ここではハンカチーフを様々なものに見立てて、マイムを
見せながら歌います。

モンマルトルで二十歳の青春をすごした、絵描きとモデル。
貧しいながらも幸せだった日々を、ふらりとさがしに来たが、
もう何も残ってはいない。
リラも枯れてしまった.....

リラの花に見立てた白い布が、ハラリと落ちます。




日本でのコンサートのときも、この曲の最後にハンカチ
争奪戦(?)があったことを思い出しました。

1924年生まれですから、現在は80代なのですが、今年2月に
日本公演が行なわれ、ファンを喜ばせました。

由紀さおりさんの「恋文」と言う歌の歌詞に「あずなぶる〜
ながしながら〜この手紙を書いてます♪」というところがあり、
「あずなぶる」とは何か? という話題を呼んだのを
思い出します。
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